小川国夫と大阪芸術大学

本日(12/13)から明日にかけて、大阪芸術大学の映画館にて
映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』の上映をさせていただいております。
映像学科の学科長で映画監督の大森一樹さんはじめ、
大阪芸術大学の関係者各位へは、心からお礼を申し上げます。
大阪芸術大学は、本映画の原作者・小川国夫さんが晩年の約16年、
文芸学科教授として深く関わった場所です。
学生の皆さんに、本映画がどのように届くのか、楽しみです。
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その大阪芸術大学で、小川国夫さんを編集人として出していた雑誌があります。
『河南文学(かなんぶんがく)』という雑誌です。毎号の巻末には、
「編集後記に代えて」として、小川国夫さんの文章が掲載されていました。
創刊号の編集後記(に代えて)は、「文学的青春」というタイトルで、
後に『昼行燈ノート』(文藝春秋)に掲載されたものですが、単行本に掲載されている
文章とは、少しだけ雰囲気が違います。
ここで小川さんは、自分たち仲間で創刊した同人雑誌『青銅時代』の思い出について
書いています。私は大阪で小川さんと出会ったひとりなのですが、
この文章は、おそらく一生忘れないでしょう。
不幸から脱すること、癒えることを理想とした文学者は、自分に固有なこの軌道にひっそりと乗っている(あるいは乗ろうとしている)星のようなものだ。しかしこの星のかたわらには、軌道に乗ることをうけがわず、破滅を急ぐ星もある。その時その星は一きわ光を益すので、私は逃げて行く蛍を掌に収めようとするかのように、空しく手を伸ばしたものだ。そして闇を掴んで悲観にくれた悪夢に似た思い出は、もう二十二年も前のことなのに、まだ身近にある。
ここで「二十二年前」と書いてあることは、1991年の時点ですから、
いま、この時点で、約41年前の話です。
小川国夫さんの「文学的青春」は、大丈夫、まだ受け継がれているよ、
と呼びかけたい気がしています。
下窪俊哉