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shellsong 報告その1「キリガミロイ」

12月5日(日)ビジュアル・アーツ専門学校大阪で行われたイベント“shellsong 耳よ、貝のように歌え”に、多くの方にお集まりいただき、誠にありがとうございました。
映画の上映・朗読パフォーマンス・対談という三本立てで行いましたが、今日は、朗読パフォーマンスについて紹介します。
朗読で扱ったテキストは、小川国夫原作の「キリガミロイ」という作品です。(『血と幻』収録)
「神」、「汚鬼」、「荒野(あらの)」、「ゲヘナ(地獄)」という言葉は僕たちが生きる日常のなかでは耳慣れないものですし、遠い世界の出来事のように思われたかもしれません。
それでも敢えてこの作品を選んだのは、遠い世界の出来事のようでいながら、僕たちが抱えた大きな問題と通底するものがあると感じたからです。
朗読は、音楽著述家であり、フォーク・ロック・バンド「湯浅湾」のリーダーである湯浅学さんと、「大阪ダルク」代表として薬物依存者のピアサポートを行う倉田めばさんに行って頂きました。
所謂「朗読」に親しんだ方にとっては、少し違和感を持たれたかもしれません。
喉の手術を行い、自らの声のキーがどこにあるか分からない倉田めばさんの声は、時に鎖を引き摺るように地を震わせ、時に蜻蛉のように宙に消え入りそうでした。
「汚鬼」、そしてその対照となる人物になり変わった湯浅学さんは、朗読の途中に挟み込まれたギターの即興演奏で、朗読という一方向に過ぎてゆく時間のなかに、時に堰となり、時に逆流するもうひとつの時間を紡いでいました。
会場には一種異様な緊張感が漂っていました。
ふたりの声とギターを通して、小川国夫が残した言葉はもういちど音に還り、物語は誰のものでもなく、語り手と聞き手のあいまを漂うことができたのかもしれません。それはひょっとしたら、僕たちが最初に聴いた音楽にちかいかもしれません。きっとそれは闇のなかから聴こえてきて、僕たちをここへ導いてくれたのだと思います。
そんなふうに感じられたのも、二人の朗読者の声に耳を預けてくれた方がいらっしゃたからこそだと思います。会場の一番後ろから見ていて、朗読者の声、ギター、とともにみなさんのふたつの耳も“楽器”のように映りました。どんな音が鳴っているのかそれは聴こえませんでしたが、なんてチャーミングな楽器なんだろうと胸高まった瞬間があったのも事実です。
このような素晴らしい場を創って頂いたみなさまに心より感謝いたします。
ありがとうございました。
井川 拓

shellsong前夜

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”がいよいよ明日開催されます。
今日は一日、会場を設営を主催者DOOM!と、ふだん映画館で働く応援隊の支援を受けて行いました。
今回のイベント準備は、イベントタイトルが示すように、「音」にこだわってやってました。言葉や音楽の分子としてある前に、まず物理的な「音」を体感してもらえるよう、劇場に設置されたスピーカーを用いず、自分たちで4台を設置し、映画をかけていきます。
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単に音量を大きくすることが目的ではありません。作品と向き合うなかで、作品の可能性を引き出し得るために出来ることをやる、というごく当たり前のことをやるためです。
映画『デルタ』を織りなす三本の作品がどのように受け手のなかに届くのか。それを想像することはやはりなによりも楽しい時間です。
来て頂いた方にとっても、楽しい時間となることを心より願っています。
井川 拓

えんがわおしゃべり相談会

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストの倉田めばさんが講師をなさった「えんがわおしゃべり相談会」に参加してきました。
「えんがわおしゃべり相談会」はココルームが企画し、大阪西成にある「カマン!メディアセンター」で約半年で22回のプログラムが組まれています。参加費は無料。様々な分野で活躍する人が講師となって、あるテーマを参加者全員で相談する場です。
僕がついたときはもう倉田めばさんの話は終わっていて残念でしたが、今回のテーマ「わたしにとっての依存」を参加者全員が話し合う場にいられたのは、とても貴重な体験でした。小さな机を囲って、みんながお互いの顔を眺め、膝をつき合わせて話を聴いていると、耳が敏感になっていると感じました。自分だけに向けられたのではないけれど、その場に居合わせたひとりひとりに届けたいと願って語られる言葉は、切実でありながら、どこかおおらかでした。言葉はときに横道にそれ、ときに宙を舞い、ときに途切れましたが、しばらくすると車座のなかにちゃんと戻ってきていました。相談ってこうやってやってたよな…。そう思い出した時、自分の耳が日常のなかでいかに塞がっているかにも気付きました。
帰りに、参加者連れ立て、価格・味ともにグッドな中華料理店でラーメンを食べました。「台湾ラーメン」380円也。
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「台湾ラーメンって名古屋発祥らしいよ」
確かに言われてみれば、甘辛いスープが手羽先を思い起こさせもします。
こういう記憶がずっと残るようを祈りながら、スープを平らげました。
“shellsong”まであと二日となりました。今日は、耳そうじを念入りにして眠ることにします。
See you!
井川 拓

『あなのかなたに』

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストのひとり、湯浅学さんの小説『あなのかなたに』(扶桑社)を少し紹介させていただきます。
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『あなのかなたに』は扶桑社の雑誌「en-taxi」に掲載された原稿を元に、2009年に刊行されました。帯に「80年代を音楽とともに駆け抜けた自伝的音楽小説」とあるように、ある視点から見つめた自身の姿(猫田正夫)と特定の時間(1980年代)とが克明に描かれています。
膨大な量の音楽家とレコードの名前が載っていますが、僕には音楽小説とは思えませんでした。仮に80年代の音楽を全く知らない人が読んでも、全く問題にはならないでしょう。むしろそういった人のほうが、この小説の一見闇鍋的な文体のなかに紡がれる声をしっかりと聴くことができるかもしれません。それは正夫が恋した女の声です。名前も付けられていない「あの女」の声はすべて正夫の回想のなかで、そのほとんどが受話器の向こう側から聴こえる声として、具体的な音楽とともに蘇ってくるのです。
一節、引用させていただきます。
「そうかLPあの女に貸したまんまだ」ほかには猫しかいない部屋で正夫は大きな声でそういった。あんたは聴いたんだからもういいでしょ。このジャケット最高よね。このバンドやっている人大竹シンローっていうんだって。先に聴かせてやったんだから、よかったでしょ、喜びなさいよ。
「あの女」の声はいつも一方的で、身勝手で、ささくれだっている。なのに正夫がいつまでも「あの女」を忘れることが出来ないのはどうしてなのか。それは最後に「あの女」が正夫にいった言葉が優しすぎたのかもしれません。
ひとが持つ「あな」のなかで唯一伸縮も閉じることのできない器官を通ったものは何処へゆくのか、そんなことに思いを馳せさせる一冊です。
井川 拓

『ノリピーよ、ダルクにおいで!』

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストの倉田めばさんの活動を少し紹介させて頂きます。
11月27日のブログで、倉田めばさんが「大阪ダルク」代表として、薬物依存者のピア・サポートを行っておられることを書きましたが、「ドラッグ」をタブー視し、忌避する傾向の強い日本では、「ダルク」の認知度はまだまだ低いようにも思えます。
「ダルク」は日本だけでなく、世界中にある施設ですが、一つの共通の理念を実践していく場であると倉田めばさんから教わりました。それは「薬物依存者に言葉を取り戻していく場」であるということです。
その具体的な内容・メソッドについて書くことは僕にはできませんが、薬物依存者に限らず、いま僕らひとりひとりが「言葉を取り戻していく場」をつくっていかなければならないのではないかと考えさせられました。
W・バロウズは「社会の中毒者」もジャンキーであると言いました。寄りかかっているものを見つめ、歩を止め、耳を傾けなければ気付けないこと、それが生きてゆく糧になる時もあるのではないかと思えるのです。
倉田めばさんは、いろんな場所へ出かけられます。薬物依存者が投獄された刑務所、精神病院、それに酔っ払いが集う大阪の路地での「えんがわおしゃべり相談会」……。
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「言葉を取り戻していく場」、そこが倉田めばさんのホームグラウンドなのです。
12月5日のイベント”shellsong”もそのような〝場”にしていきます。是非お楽しみに!
(※写真は既に終了したイベントのものです。本記事タイトルは、大阪ダルクでの最近の合言葉らしいです。)
井川 拓

湯浅湾『浮波』

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストのひとり、湯浅学さんについて少し紹介をさせて頂きます。
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湯浅学さんは「音楽評論家」という肩書を付されることが多いですが、「湯浅湾」というフォーク・ロックバンドを率いて、歌とギターを担当されています。ひょっとしたら、湯浅さんの文章は読んだことはあるけど、音楽は聴いたことはないという方は多いかもしれません。僕もそうでした。途方もない音楽への憧憬を抱き続け、それを誰にも真似できぬやり方で言葉に発露してきた人間が、果たして自ら歌う必要があるのだろうかという疑念と不安があったのです。
湯浅さんが本腰を入れてギターを練習し歌い始めたのは、三十六歳のときだったと聞いています。もう既に「音楽評論家」としての地位を確立し、多方面から注目を集めていた時期です。にも拘わらず、書く仕事の量が減るのも知りながら、湯浅さんは歌い始めました。
「湯浅湾」の音楽を聴いたとき、自分の矮小な思いは見事に裏切られました。
「ふとある日…」と歌いだされる声は、語りかけてくるようでいながら、くぐもった滲みが耳に残りました。笑い涙を誘うほど情感豊かなのに、発散・解放はしてくれない。聴き終わると、しばらく何も手につかない。突然尿意を催したり、無性に腹が減ったり、不意に家族と話したくなったりしてしまうのです。だからこそ、「湯浅湾」は、フォーク・ロックバンドなんだと思うのです。生きることはどこを切ってもくだらなくやるせなく、だからこそいとおしいことを思い起せる、そんな音楽はそうざらにはありません。
“shellsong~耳よ、貝のように歌え”では、湯浅学さんに朗読にギターを交えたパフォーマンスを行って頂きます。
歌を歌わない湯浅学さんがどんな声を響かせるのか、ぜひ耳を傾けて下さい。

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※12月15日、湯浅湾のライブアルバム『浮波(フナミ)』が発売されます。ライヴ音源だけでなく、今回のイベント主催者DOOM!が撮影・編集したヘヴィー級のボリューム映像DVDが、湯浅湾の魅力をがっつりと伝えています。
ぜひお楽しみに!

井川 拓

『海のように、光のように満ち』

今日は、東京&藤枝公開でも好評を得た、映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』の副読本『海のように、光のように満ち──小川国夫の《デルタ》をめぐって』を紹介します。
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映画には「パンフレット」が付きものですが、この本はいわゆる映画のパンフレットとは言えません。勿論、映画について書かれている部分もありますが、そこからはみ出す部分のほうが多い、少し不思議な構成となっています。
著者は下窪俊哉さんです。既にこのスタッフブログをご覧の方にはお馴染みの名前かもしれません。
小川国夫氏が大阪芸術大学で教鞭をとられていた晩年に、下窪俊哉さんは偶然、その場に居合わせました。興味を持ったきっかけは、講談社文芸文庫から発刊された『アポロンの島』と出遭ったことだと聞いています。
『海のように、光のように満ち』には、小川国夫氏にまつわる様々なエピソードが書かれています。「孤高の作家」と呼ばれることが多い小川国夫像に対して、新しい視点から読み直してみようという提示もされています。
ただ、この本が「小川国夫」副読本であるかと問われれば、そうとも言えない面も持っています。
映画『デルタ』を語る件に、こんな文章があります。

「…つまり他人に関心がもてないということは、自分自身にも関心が持てないということだ」

『海のように、光のように満ち』という本の魅力は、ある意味完結していないことにあるのではないかと思います。中途半端というのではない。
人がなにかに惹きつけられるということの尊さが、何度もかたちを変えて語られています。
自分を、または相手を納得させる言葉には事欠かない時代にわたしたちは生きているとも言えます。でもこの本からは、そんなすぐ手に入れられる答えに頼らずに、一緒に考えてみようよ! と呼びかけるような親密さがあります。同時に、言葉を仲立ちにして生きていかざるを得ないふらふらした生き物に惹かれた者を見守っていかんとする真剣さもあります。まあそれほど堅苦しくはないですが……。
※12/5(日)ビジュアルアーツ専門学校大阪での関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”では、来場者全員に『海のように、光のように満ち』を一部ずつお渡ししたいと思っています。この本が映画を観に来て下さった方々にとって、どんな「副読本」になるか見当はつきかねますが、ともに歩んでゆく道の肥やしになればと思っています。
(シネ・ヌーヴォでは500円で販売予定です。)
井川 拓

“artist”と“activist”

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストのもう一人は、倉田めばさんです。
倉田めばさんは、「大阪ダルク」代表として、薬物依存者のピア・サポートに務めておられます。
長い時間、薬物に依存してきた倉田めばさんが、サポートする立場にまわったきっかけを少し紹介させてもらいます。
倉田めばさんは、大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校大阪、つまり今回の会場です!)を卒業なされた後、ヌードカメラマンとして活動を開始されました。元々は、「アーティスト」だったのです。それがある事件とある人間との出会いを通じて、倉田さんを「アクティヴィスト」へと導くようになりました。一旦はカメラを置き、ゼロからの出発から1993年に「大阪ダルク」を立ち上げるのに到ったのです。
「アーティスト」と「アクティヴィスト」という言葉は対峙するものではありません。むしろ、その二つが交差する瞬間にこそ、人が発するエネルギーが他者を動かすと言ってもよいのかもしれません。
最近になって倉田めばさんは詩作を再開され、パフォーマンスという分野にも挑戦されています。
ある意味では「アクティヴィスト」から「アーティスト」へ戻ったようにも見えますが、もはやめばさんのなかで垣根はなくなっているのだとも感じられます。地続きの表現として、過去と今と未来を見据えられているのが倉田めばさんの声から伝わるでしょう。
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今回のイベント”shellsong”は、映画を出発点としたイベントですが、普段映画にあまり接することがないような方にも楽しんでいただける場としていきます。誰しもが持っている「アーティスト」と「アクティヴィスト」という二つの顔を発見する機会を創っていきたいと考えています。
井川 拓

「耳の心、心の耳」

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストのひとりは、湯浅学さんです。
その湯浅さんの文章が、雑誌『真夜中』No.11(2010 Early Winter)に掲載されています。
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特集「音楽と言葉とエトセトラ」に寄せて書かれたもので、
「耳の心、心の耳」という文章です。
一読して、すぐにもう一度読みたくなって、読みました。
「音楽を聴く」ということ、「音を聞く」ということ、
そして「音楽について語る&書く」ということについて、
湯浅さんの生活や仕事を通して培われてきた実感のようなものが
滲み出ているのでしょう。
やわらかな共感も、ゴツゴツとした違和感のようなものも
両方が感じられる素晴らしい文章です。
“shellsong”でも、“音”について、“言葉”について、
面白いお話が聞けると思います。楽しみです!
小川国夫さんも“音”にこだわりつづけた人でした。
(また追々書いてみようと思います)
物音はすべて音楽だ。そう思ったほうが気が楽だ。
と、湯浅さんは書いています。
ぜひ書店でお手にとってご覧ください。
※“shellsong~耳よ、貝のように歌え”のイベント概要をアップしました。
 ぜひご覧ください。そして、この貴重な機会をお見逃しなく!

下窪俊哉