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『海のように、光のように満ち』

今日は、東京&藤枝公開でも好評を得た、映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』の副読本『海のように、光のように満ち──小川国夫の《デルタ》をめぐって』を紹介します。
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映画には「パンフレット」が付きものですが、この本はいわゆる映画のパンフレットとは言えません。勿論、映画について書かれている部分もありますが、そこからはみ出す部分のほうが多い、少し不思議な構成となっています。
著者は下窪俊哉さんです。既にこのスタッフブログをご覧の方にはお馴染みの名前かもしれません。
小川国夫氏が大阪芸術大学で教鞭をとられていた晩年に、下窪俊哉さんは偶然、その場に居合わせました。興味を持ったきっかけは、講談社文芸文庫から発刊された『アポロンの島』と出遭ったことだと聞いています。
『海のように、光のように満ち』には、小川国夫氏にまつわる様々なエピソードが書かれています。「孤高の作家」と呼ばれることが多い小川国夫像に対して、新しい視点から読み直してみようという提示もされています。
ただ、この本が「小川国夫」副読本であるかと問われれば、そうとも言えない面も持っています。
映画『デルタ』を語る件に、こんな文章があります。

「…つまり他人に関心がもてないということは、自分自身にも関心が持てないということだ」

『海のように、光のように満ち』という本の魅力は、ある意味完結していないことにあるのではないかと思います。中途半端というのではない。
人がなにかに惹きつけられるということの尊さが、何度もかたちを変えて語られています。
自分を、または相手を納得させる言葉には事欠かない時代にわたしたちは生きているとも言えます。でもこの本からは、そんなすぐ手に入れられる答えに頼らずに、一緒に考えてみようよ! と呼びかけるような親密さがあります。同時に、言葉を仲立ちにして生きていかざるを得ないふらふらした生き物に惹かれた者を見守っていかんとする真剣さもあります。まあそれほど堅苦しくはないですが……。
※12/5(日)ビジュアルアーツ専門学校大阪での関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”では、来場者全員に『海のように、光のように満ち』を一部ずつお渡ししたいと思っています。この本が映画を観に来て下さった方々にとって、どんな「副読本」になるか見当はつきかねますが、ともに歩んでゆく道の肥やしになればと思っています。
(シネ・ヌーヴォでは500円で販売予定です。)
井川 拓

“傾聴”とは

関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”ですが、
いよいよ今度の日曜に、迫ってまいりました!
井川拓の書いた昨日のブログを読んでいただければ、
“shellsong”が、そして映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』が、
ただ小川国夫の小説を“使った”だけの、悪戯な試みではないということを、
少しでも感じていただけると思います。
と、これにつなげて、何か“でかいこと”でも書いて大宣伝したいのですが、
どうもそういうのは苦手というか…。いや、ただ単に、ここでは違うことを書きたいのです。
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雑誌『新潮』2004年6月号に発表されたエッセイ「耳を澄ます」
(2006年12月に幻戯書房から発行された『夕波帖』に収録)には、
小川国夫流の“創作感覚”のようなものが書かれています。
タイトルから想像できると思いますが、ここで書かれているのは、
“聴覚”について、“音”について、です。
が、聴覚を含めた“五感”とは「便宜的な分けかた」であって、
「たがいに色層がにじみ合った虹のようなもの」とも書かれています。
ここで小川さんは(作品名こそ明記していませんが)
自身の短篇小説「ハシッシ・ギャング」の舞台裏の楽屋を披露しています。
(もちろん映画『デルタ』の原作のひとつとなった、あの小説です)
これは実験小説のたぐいです。勿論理想の小説ではありません。
理想からかけ離れた出来栄えです。しかし、けなげにも、はるかに遠い理想を、
私は追いかけているつもりなのです。なぜなら、私は、この一篇に
傾聴とは何かを集約したいと願って書いたのですから…。
テレビや政治家がしきりに助長している饒舌の時代に、
文句をつけたいわけではありません。
私の願いはただ一つ、傾聴の世界を書きたいのです。

この文章を読めば、小川さんが小説を書くことを通してずっと考えていたことは、
社会問題とか、まして風景描写とか音の表現といった
単純なことではまったくなかったことがよくわかると思います。
“傾聴”とは、何でしょうか?
いま、たとえば福祉、医療、教育など(あるいはビジネス?)の世界で、
よく言われる言葉と聞いています。
ただ、さりげなく「耳を澄ます」と書いた小川国夫さんに、思いを馳せています。
下窪俊哉

“artist”と“activist”

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストのもう一人は、倉田めばさんです。
倉田めばさんは、「大阪ダルク」代表として、薬物依存者のピア・サポートに務めておられます。
長い時間、薬物に依存してきた倉田めばさんが、サポートする立場にまわったきっかけを少し紹介させてもらいます。
倉田めばさんは、大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校大阪、つまり今回の会場です!)を卒業なされた後、ヌードカメラマンとして活動を開始されました。元々は、「アーティスト」だったのです。それがある事件とある人間との出会いを通じて、倉田さんを「アクティヴィスト」へと導くようになりました。一旦はカメラを置き、ゼロからの出発から1993年に「大阪ダルク」を立ち上げるのに到ったのです。
「アーティスト」と「アクティヴィスト」という言葉は対峙するものではありません。むしろ、その二つが交差する瞬間にこそ、人が発するエネルギーが他者を動かすと言ってもよいのかもしれません。
最近になって倉田めばさんは詩作を再開され、パフォーマンスという分野にも挑戦されています。
ある意味では「アクティヴィスト」から「アーティスト」へ戻ったようにも見えますが、もはやめばさんのなかで垣根はなくなっているのだとも感じられます。地続きの表現として、過去と今と未来を見据えられているのが倉田めばさんの声から伝わるでしょう。
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今回のイベント”shellsong”は、映画を出発点としたイベントですが、普段映画にあまり接することがないような方にも楽しんでいただける場としていきます。誰しもが持っている「アーティスト」と「アクティヴィスト」という二つの顔を発見する機会を創っていきたいと考えています。
井川 拓

「耳の心、心の耳」

12/5(日)開催の関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”の
スペシャルゲストのひとりは、湯浅学さんです。
その湯浅さんの文章が、雑誌『真夜中』No.11(2010 Early Winter)に掲載されています。
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特集「音楽と言葉とエトセトラ」に寄せて書かれたもので、
「耳の心、心の耳」という文章です。
一読して、すぐにもう一度読みたくなって、読みました。
「音楽を聴く」ということ、「音を聞く」ということ、
そして「音楽について語る&書く」ということについて、
湯浅さんの生活や仕事を通して培われてきた実感のようなものが
滲み出ているのでしょう。
やわらかな共感も、ゴツゴツとした違和感のようなものも
両方が感じられる素晴らしい文章です。
“shellsong”でも、“音”について、“言葉”について、
面白いお話が聞けると思います。楽しみです!
小川国夫さんも“音”にこだわりつづけた人でした。
(また追々書いてみようと思います)
物音はすべて音楽だ。そう思ったほうが気が楽だ。
と、湯浅さんは書いています。
ぜひ書店でお手にとってご覧ください。
※“shellsong~耳よ、貝のように歌え”のイベント概要をアップしました。
 ぜひご覧ください。そして、この貴重な機会をお見逃しなく!

下窪俊哉

小川文学への招待、その一例

聞くところによると、チラシ配り担当(?)の暁雲さんは“マッチ売りの少女”状態だそうで、
貴重なチラシを燃やして暖をとると、小川国夫さんが「出たぞう」なんて
言って現われて、「イッパイやろうか」って赤提灯の店にでも誘われそうです。
冗談はさておき、寒くなりましたね。風邪も流行っているようですので、
皆さん、体調には気をつけて、なるだけあたたかくしてお過ごしください。
さて、小川国夫の作品に関して、
「ガイド」が欲しい、とおっしゃる方へ、オススメの本を今日はご紹介しましょう。
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2009年10月に静岡新聞社から出た、山本恵一郎『小川国夫を読む』(静新新書)
山本恵一郎さんは、小川国夫本人からの依頼を受け、小川国夫自身はもちろん
周囲の人へのインタビューを長年に渡ってつづけてこられた、小川国夫の年譜制作者。
『東海のほとり』、『海の声』、『若き小川国夫』といった評伝本も書かれています。
この本では、小川国夫の初期~晩年の本をまんべんなく、順不同にとり上げて
解説していて、作家自身との交流、大阪の教室での様子を取材した記事や、追悼文なども収録。
「ガイド」なんて言い方をしましたが、小川文学を読み込んできた方にも
いろいろな発見があるかもしれません。
※12/5(日)ビジュアルアーツ専門学校大阪にて、
 関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”を開催します!
 映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』上映はもちろん、
 湯浅学さん(幻の名盤解放同盟) × 倉田めば(大阪ダルク)さんを
 ゲストにお迎えしてトーク&朗読パフォーマンスを行います。
 映画ファン、文学ファンの垣根を越えて、たくさんの方のご来場を
 心からお待ち申し上げます。詳しくは、公式サイトをご覧ください!

下窪俊哉

ただ“続ける”ということ

映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』の関西上映に先駆けて開催予定の
12/5(日)のイベントが、いよいよ来週末に迫ってきました!
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“shellsong~耳よ、貝のように歌え”というタイトルは、
由来は小川国夫の短篇「貝の声」からと書きましたが、
映画『デルタ』の3篇が共通のテーマとして抱えている(と思える)
“幻聴”とか“音”といったものへのアプローチを視野に入れています。
それが、具体的には一体どんなアプローチなの? ということは、
おそらく“shellsong”と12/21からはじまる大阪公開~名古屋公開を通して、
見てくるはずです。(どうぞご期待ください!)
このスタッフブログは、これから12/21までのカウントダウンのように?
些細な内容でいい、毎日書くという行為を通して、
もしかすると何か発見があるかもしれない、そんな思いで更新をつづけています。
ご覧になっている皆様のクリックひとつが、心強い応援です。
(ありがとうございます!)
大阪公開まであと1ヶ月と少し。のんびりお付き合いください。
よろしくお願いします!
下窪俊哉

シネ・ヌーヴォ公開用チラシ配布中!

11月もいよいよラスト1週間!
今日は祝日でしたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
夏に映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』をご覧になった方々と
話をしていると、「誘惑として、」「他界」「ハシッシ・ギャング」のうち
「とくにこの作品が好き!」という意見がけっこうわかれていました。
同じ作家の小説を原作としている3篇ではありますが、3者3様のアプローチがあって、
映画『デルタ』の放つ魅惑は、そんなところにもありそうです。
さて、大阪シネ・ヌーヴォでの公開まで、あと1ヶ月を切りました!
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現在、関西の映画館、書店などのショップを中心にチラシを配布中。
まだまだ置いていただける方、配布してくださる方を大募集中です!
とくに大阪、名古屋(およびその近郊)で応援してくださる皆様、
どうぞよろしくお願いいたします!
※12/5(日)ビジュアルアーツ専門学校大阪にて、
 関西上映先行イベント“shellsong~耳よ、貝のように歌え”を開催します!
 映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』上映はもちろん、
 湯浅学さん(幻の名盤解放同盟) × 倉田めば(大阪ダルク)さんを
 ゲストにお迎えしてトーク&朗読パフォーマンスを行います。
 映画ファン、文学ファンの垣根を越えて、たくさんの方のご来場を
 心からお待ち申し上げます。詳しくは、公式サイトをご覧ください!

下窪俊哉

「駅の明り」に照らされて

昨夜のアップリンクX、金子雅和短篇映画集『辺境幻想』
お越しくださった皆様、ありがとうございました!
「誘惑として、」とのカップリング、残念なことに私は行くことができなかったのですが、
最新映写機の導入で更に精度を増した“映像美の共演”になったとか?
聞いたところによると、映画「ハシッシ・ギャング」の小沢監督に、
小川国夫の本を最初に紹介したのは金子監督だったとのこと。
金子監督には、7月に開催した映画『デルタ』関連イベントでも
映画への想い、小川文学への想いを存分に語っていただきました。
『辺境幻想』、12/3まで公開予定なので、ぜひご注目ください!
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さて、映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』原作紹介その4。
「誘惑として、」では、『マグレブ、誘惑として』から「薬(ヤク)の仲間」と、
もうひとつ別の小説を“メドレー仕立て”のようにしています。
そのもうひとつの小説とは、1990年10月刊行の短篇集『跳躍台』(文藝春秋)
に収録されている「駅の明り」という短篇。
もともとは雑誌『群像』1986年10月号に発表されていたもので、
ある夜、何気なく触れ合い、交わった男女のエピソードが、
小川国夫らしい切れ味抜群! の文章で表現されています。
作者自身の自作解説によると、この作品は
「まともな学生でもあり得ず、遊び人でもあり得ず、まして地道な働き手でも到底なくて、
 戦後の、電灯のまばらな暗い道をあてどなくさまよっていた青年の苦い記録」
だそうです。
私の記憶では、この「駅の明り」は、同じ短篇集『跳躍台』収録の「天の本国」と
つながった同じ作品として書かれて、結果的に別々の短篇としてまとめられたと、
小川さんが話していたのを覚えています。
その「天の本国」は、講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見(16)「私」という迷宮
に収録されていて、現在でも入手可能と思われます。
下窪俊哉

『マグレブ、誘惑として』から(2)

小川国夫は、旅に生きた作家でもありました。
『マグレブ、誘惑として』の作家は、
“言葉”を探すため、北アフリカ・マグレブを旅します。
旅に明け暮れた若き日を思い出したとき、マグレブ諸国は
作家にとってもっとも魅惑の多い場所だったようです。
心臓に病を抱える彼にとって、命がけの旅だったというふうにも書いてあります。
その旅で、彼はマグレブに住み着いたある日本人と出会います。
彼は一度、自殺をしようと決意してその地へ来ますが、
砂漠に降り注ぐ星空に惹きこまれて、「捉え」「ゆさぶられ」
「自然と呼応する」ように生かされたと作家に話します。
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静岡新聞社制作によるDVD『故郷を見よ 小川国夫の文学世界
の映像のなかで小川さんは、「自然のなかに展開する人間のドラマというものに
たいへん興味があって、…文学は風土を書くというものというふうに
見直されてくるんじゃないかという気がします。なぜかっていうと、
人間っていうのは大自然のなかに生きている生き物なんです」と語っています。
人の考えられる力を超越した自然の力を、見つめつづけていました。
※本日11/21(日)、渋谷アップリンクXで上映中の
 金子雅和短編映画集『辺境幻想
 にて「誘惑として、」短篇バージョンがゲスト上映されます。
 ぜひご注目ください!

下窪俊哉

『マグレブ、誘惑として』から(1)

映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』原作紹介その3。
「誘惑として、」が原作としている作品はふたつありますが、
まずは、タイトル「誘惑として、」の由来にもなっている
『マグレブ、誘惑として』をご紹介しましょう。
小川国夫『マグレブ、誘惑として』は、雑誌『群像』に発表され
1991年9月号から1年間(12ヶ月)かけて連載された小説です。
(単行本は1995年1月に講談社から刊行)
映画『デルタ』で原作としてとり上げられている他の作品と違って、
これは長篇小説です。
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小川国夫の小説には、作者自ら《半自伝》と読んだ作品群がありますが、
(「自伝」ではなく「半」自伝なんて考えるところがユニーク!?)
小川さん自身を写したような人物には、「柚木浩」「岩原房雄」という
ふたりがいます。(「ふたつの名前があります」と言ったほうが良いかも?)
『マグレブ』に出てくるのは岩房さん。62歳になった彼は、
「書けなくなって」いて肉体の衰えを強く意識しています。
何とかそこから脱したい、と思っています。
映画「誘惑として、」に出てくる場面は、そんな岩房の前に現われた
「小説が書きたい」と言う老人(半田)との対話のセクションで、
「薬(ヤク)の仲間」と題された章です。
「薬の仲間」という題は、その老人が語る話からきています。
太平洋戦争中、兵隊となって満州にいたころ、脱走兵がふたり、出た
という話です。そのころ日本軍では麻薬が常習されていて、
彼らは幻聴をきいていた、実は自分も聞いていた、と。老人はそう話します。
※明日11/21(日)、渋谷アップリンクXで上映中の
 金子雅和短編映画集『辺境幻想
 にて「誘惑として、」短篇バージョンがゲスト上映されます。
 ぜひご注目ください!

下窪俊哉